生命記憶
 
生命記憶と回想
 
 ここで言われていることは,DNAや細胞,もっといえば身体のここかしこに,生物発生以来,あるいは生命誕生以来の進化の歴史が刻み込まれていて,なにかのきっかけで我々はこれを回想することができるということである。
 三木成夫は,ここで椰子の実と母乳の味についての自らの体験を述べ,その内省体験が必ずしも突飛なこととばかりは切り捨てられないこと,もっといえば,わたしたちの中にその太古からの記憶を再生する力が,もともと内蔵されていることを示唆するような言い方にさえなっている。もちろん,三木本人が述べているように,ここで語られる世界は「実証を旨とする今日の世相から申しますと,まるでお笑い草なのですが……。」という面のあることは免れない。だがこの二つの体験は,三木成夫の世界への入り口としての重要な体験なのだ。
 
椰子の実
 これは椰子の汁を吸った瞬間,「これは他人の味ではない,いったいおれの祖先はポリネシアではないか!」と確信的に思ったという体験である。これには後日談があって,論理脳,感覚脳と分かれる脳の働きがある中で,日本人は風の音を聞くときに左脳を使う型を持っていて,ポリネシア系の人々も同じ型の脳を持つということが最近判明されるようになって,三木はその時の自分の直感に根拠が得られたと思ったことが書かれている。
 
母乳の味
 ここでは母乳を口にした体験から,それがほとんど味も匂いもないものであったこと。それはからだの原形質にとってなじみきっているものだからと考えられている。それは誰しも赤ちゃんの時に毎日のように呑んでいたからというのではない。哺乳類誕生以来の長い年月にわたり,親から子へわたって延々と引き継がれてきた体験であり,細胞にまでしみわたり,あまりにも違和感のない味と匂いとなっているからなのだ,と考えられている。
 さらに医学生の頃の出産に立ち会って時の経験から,「羊水とは古代海水の面影を宿したもの」という思いを持つようになった経緯が語られ,「それは椰子の実や母乳に対するよりはるかに根の深い生命記憶に由来する」と述べている。つまり「われわれの細胞原形質が故郷の海の水を」記憶しているので,生物学の知識以上のものとして,すなわち直感的に「海」がすべての生物の故郷という思いを抱くのであろうということだ。
 
人類と海
 人類と海との深い関わり合いを,生物発生の歴史の中で振り返って語られているのがこの項である。
 古生物学の記録から,三木はカレドニア造山運動の最盛期,地球規模での地殻の隆起が起こり海の生物たちは陸へおし上げられたと考える。
 まず古代植物が陸上に栄え,「土壌」という地球を包む生きた皮膚が作り上げられる。この古代緑地に動物たちが続々と上陸を始める。えさを求め,決死の覚悟で彼らは上ってきたのだろうと三木は言う。脊椎動物,無脊椎動物を問わず,それは自ら進んでかもしれないし,地殻の隆起に引き込まれての上陸であったかもしれない。
 三木によれば,その中で脊椎動物,すなわち当時の魚類たちはエラの一部から肺を作り,それで空気を呼吸するという想像を絶することをやってのけたのだという。これが両生類の祖先となって,はじめて姿を現した。
 一方こうした環境の中で,再び海へ引き返した魚類がいて,これを硬骨魚類と言うが,これには原始の肺,もしくは時代の新しいものにはくびれた浮き袋が見られるのだという。今日魚屋におかれる魚の類は,この浮き袋を持った比較的新しい種類であることは
言うまでもない。
 これに対して,「深海の精」として上陸組とは一線を画した魚類の一団がいた。軟骨魚類と呼ばれる一団で,サメなどが代表格である。
 また,上陸に成功した脊椎動物でその後再び故郷の海に帰った一群もある。爬虫類の海亀や魚龍,哺乳類の鯨の仲間などである。
 人類は,上陸して両生類,爬虫類,哺乳類と進化を遂げ,今日にいたってその進化組の頂点立っていると考えられる。だから海水浴などで,フカ(サメ)に出会ったら「それはもう陸・海の王者の格闘ということ」になるという。もちろん,もっと先まで祖先を訪ねれば,当然サメと人類との祖先は同じであるに違いないと思うが……。
 
 三木成夫のこうした認識はとても驚きで新鮮だった。もちろんここではサッと進化の表面をなでるような言い回しになっていて,これだけで彼のいう進化の過程を鵜呑みにすることはできない。しかし,他の文章そして彼の描くシェーマ,それは解剖学をはじめとする学問研究の成果が発揮された文章やシェーマであるが,それを目にするとまたいっそう彼の進化に関する記述には信憑性が吹き込まれるのだ。
 
 次に,赤ちゃんの心臓奇型を調査した話がだされる。
 その結果,異常型から正常型にいたる六つの段階が見られると結論づけている。この六つの段階は大きく二つに大別され,一つは海へ戻った硬骨魚類の三段階の型と,もう一つは陸へ上った両生類・爬虫類と哺乳類の三段階の型であるという。前者の海の型は新しいものほど肺ないしは浮き袋の静脈が心臓から離れ,後者の陸の型は逆に心臓に近づき,哺乳類では直接心臓に注ぎ込むのだという。この哺乳類の型が正常型で,後はすべて異常型である。
 つまり,「こうした奇型は,われわれの共通の祖先から枝分かれしたそれぞれの動物たちの型が,どういうわけか出てきたものである。」
 
 ぼくはここで,奇型が決して文字通りの奇型ではない,という印象を強く持った。また奇型というものに,なにかしら畏敬の念さえ起こった。ここから見えてくる奇型とは,いわば逆進化という姿で進化の過程を逆照射して見せてくれるように思う。あるいは,身体としての祖先がここに姿を見せてくれた,そこに自然に敬いの気持ちが生じてきたという感じであった。
 
 さて,三木さんはここから発生学的な調査,研究を始める。鶏卵を用い,発生の順を追って「肺の血管」のできかたを調べていった。ケシ粒くらいの心臓が動き出す2日目から,細いガラス張りで墨汁をその心臓に注入し,全身の血管網を浮かび上がらせる。三時間おきに注入は続けられる。
 4日目になるとこれがうまくいかず,半日異常すぎてまたうまく入るようになるのだそうである。なにか4日目には胎児の内部にすごい革命が起こっている模様で,四苦八苦してこの時期の標本を作って時間ごとに並べてみたところ,この1日足らずの間に魚類のエラの血管がみるみるうちに両生類の肺の血管から,爬虫類の肺の血管へと変身していったのだそうである。しかもその間に,硬骨魚類の原始の肺静脈から浮き袋の静脈にいたるまでが一斉に現れまた次第次第に消えてゆくのだそうだ。
 三木は,このことから,ここに,あの脊椎動物の上陸と撤退のドラマが瞬間的に再現されているのではないかと考えた。少なくとも古生代末の一億年の歳月がぎゅっと圧縮され,前述の心臓の各段階の奇型はこの時期に発生の方向を取り違えて起こることが分かったという。
 
胎内の世界
 心臓の奇型を調査する中で,鶏卵の肺の血管のできかたの調査に進み,鶏の胎児の2日目から4日目頃にかけて,肺また付近の血管に進化の形跡がたどられた。そこに脊椎動物の上陸の時代の面影がはっきりと宿されていた。
 人の胎児ではどうなのか。
 三木は,フォルマリンの液体の中にある受胎後三十二日目の胎児の頸部を切り落とす。そこには軟骨魚類のフカの顔が現れた。三十四日目の胎児の標本では,爬虫類の相貌が,三十八日目のそれには哺乳動物の顔が,現れた。この一週間ばかりの間に,胎児にはこういう劇的な変化が起こり,母体にはあの「つわり」が起こる。
 「つわり」は,単純な拒絶反応などではなく,古生代の終わりの一億年をかけた上陸の歴史が,母親の体を舞台に激しく繰り展げられているのであって,母親というものはじっとそれを抱え込んでいるものなのだと,三木は言う。
 
 「生命記憶と回想」の末尾の項は,わたしには少し難解である。直接目に触れて読んでもらうのが一番良いと思う。
 あえてこれをまとめれば,どういうことになるだろうか。
 母胎の中の胎児の成長は,ある面で生物進化の悠久のドラマの瞬間の再現である。このとき母胎の心臓音は,古代の海の響きに重なる。また数億年を海中に過ごした祖先が四六時中全身の肌で受け取っていたその響きに重なる。
 三木はここから「宇宙リズム」の内蔵,「生のリズム」の内蔵という考えを持ち出してみせる。そこでは,鮭,鳥,などの動物の他に,植物の「食の相」「性の相」などのようなものにも壮大な回帰運動を認め,それらの体細胞が地球を介して太陽系との繋がりを記憶しつくしているからだと結論づけている。これはまた,それこそ生命記憶の根源の,そのまた根源ではないかと考えられている。そしてこれは例のDNAにも記憶され,秘められているのではないかとということだ。
 現代に生きる人々は,目先の出来事に一喜一憂するばかりではなく,この生命記憶に耳を傾け,その語るところを聞き取らねばならない。そう,三木成夫は,主張しているように思われる。そうでなければ未来を過つ,と。


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